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2007-01-31

手 心 人

お知らせです。

せつ子とは直接関係ないですが、私の父が1月15日7:22分帰らぬ人となりました。
医者に後もって2,3日と言われてから六日間頑張って逝きました。
最後を看取ったのは母と私、私の夫、父の兄、弟、妹、私の従兄弟夫婦。
大勢に見守られて最後の呼吸を終えました。

医者に後2,3日と言われた事を知り、親戚、父の会社の友達、その家族大勢がお見舞いに来てくれました。
私たち家族は父が定年するまで社宅に住んでおり近所には大勢の家族がいて私たち家族の部屋の隣に
いた家族は子供四人の大家族でした。

一番上の子が二歳くらいの時に隣に引っ越してきてからずっと付き合いは続き、二番目、三番目、四番目
が生まれる時、お産の為病院に母親が入院する時は上の子供たちを預かったりしてました。

隣に引っ越して来た時二歳くらいだった長男は今年高校を卒業し、就職先も決まってました。
その報告を受けたのは父の病室。

隣の大家族は父が余命宣告を受けてから毎日四兄弟とその母の五人でお見舞いに来てくれました。
もう、会話もできず、ベットに横たわる父の両手を右手二人、左手二人と握り涙を浮かべながら
「おじちゃん」と繰り返し呼んでくれました。

ほとんど意識のない父の手がかすかに動き何か言いたげに目を開き、父は四人の子供たちの顔を見ていました。

余命2.3日と言われてから二日目くらいの時でしょうか、病室に知らない顔がきました。
話を聞くと父の後輩との事。
会社の人から父の話を聞きお見舞いに来てくれました。

ベットに横たわる父を見てショックを受けたようでした。
父は運送会社でトラックの運転手をしており身長175センチ、仕事全盛期には体重85キロもあったその体は
癌に犯され60キロをきってました。

全盛期の父を知るその同僚の方は私に話してくれました。
「14年前私が会社に入って仕事を始めた時、辛くて何度も辞めようかと思いました、でもそのたびに励ましてくれました。
自分が今も会社に勤め、結婚し、子供を養っていられるのは○○さんおかげなんです。」

私の知らない父の顔でした。
父はおおらかで子供好き、酒が好きな長距離トラック運転手でした。
酒が好きで友達も多く、よく飲んだ後友達を連れて家に帰ってきては母と私を困らせてました。
でも、私も母もそんな父が実は大好きでした。

酒を飲んで笑って、仕事して、そんな父が一人の人を励ましていた事を知れて私はその同僚の方にとても感謝しています。

私は父とその同僚の方を病室に二人だけにしました。

しばらくし、病室に入るとその人も父の手を握り目を真っ赤にして父に話しかけてくれていました。


余命宣告を受け私と母は父に付いていた為三日目くらいには疲れきってしまってました。

父と母が仲人をした夫婦も毎日お見舞いに来てくれていて、疲れた私たちを見てその仲人をした奥さん二人とその息子が
一晩父に付いていてくれました。

仲人をした夫婦のその息子は今高校で野球をしており、子供は私一人しかいない父はその子を息子のようにかわいがり野球の試合
の度に応援に行ってました。

その子が中学から高校に進学する際、野球の推薦が二校から来ておりひとつは県外の高校で
高校野球としては県外の寮生活になる学校の方が甲子園に近い学校だったのですが県内の高校の推薦を
選びました。

丁度二年半前の話です。
県内の高校に決めた直後父が癌で余命三年の宣告をうけました。
その子は父の余命三年を知り一度決めた県内の高校ではなく県外の高校にすると言い出し、泣きながら「高校を変える!」
と言ったらしいです。
しかし、時期的にもう高校を変えることはできませんでした。

中学生だったその子にとって父の余命三年はとてもショックだったらしく、今回父が余命数日と宣告を受けた事をその子の
母親は息子に言えずにいました。

余命数日と言われてから二日目くらいのときでしょうか、私と主人が父の枕元にいると父がその子の名前を呼び出したんです。
「○○!!」と何回も連呼しました。

それを聞いて私はやはり父にその子を会わせてあげたくなり、母に頼んできてもらうよう言ってもらいました。
その子の母は父が余命数日と宣告させたこと、三年前父の余命が三年と言われたときあまりにショックを受けていた為いえずに
いた事をまだ学校にいて野球の練習をしている息子に携帯で連絡してくれました。

余命2,3日と宣告を受けた三日目の夕方、野球の練習着の上に制服を着て汗だくになってその子は病院まで走ってきてくれました。

父の手を握りずっと涙を流して立ってました。
椅子に座りなと進めても父の傍らに立ってずっと手を握り締めてくれてました。

そのまま、その子とその子の母親、もう一人の仲人をした夫婦が父に一晩付いていてくれました。

そこから三日間父は生きました。

父にとってその子は「夢と希望」でした。

父はよく弱音を吐きました「俺はもう、死ぬんだ」と。
私と母が何を言っても弱音を吐く時がありました。
そんな時「お父さん、○○くんの野球応援するんでしょ!甲子園連れてってもらうんでしょ!」と言うと素直に
「そうだった!」と言い前向きになってくれました。

余命2.3日と宣告を受け、そこから3日間生きられたのはその子のおかげだと思います。
その三日間の間、父と縁のある人が全員お見舞いに来てくれました。

全員に会った翌日、1月15日7:22分、父は息を引き取りました66歳でした。

六日間の間、何十人の人が父の手を握ってくれました。
中でも、私の印象に残ったのがこの三つの手です。

隣に住んでいた四兄弟、下は小学四年生の次女、中学一年の次男、高校二年の長女、高校三年の長男。
四人の八つの手が父の手を毎日握りに来てくれました。

父の後輩は細くなった父の手を両手で包むように握ってくれました。

野球の練習を終え練習着の上にそのまま制服を着て走ってきてくれた子の手は土で汚れていました。
一晩そばに付いて、翌日また学校に行きました。

その子は母親に言ったそうです「俺、看護師になろうかな」と。
一晩父の傍らにいたその子の、その純粋な心に父の死は何か変化をもたらしたみたいです。

告別式の時、葬儀場から火葬場に向かう途中父の同僚の配慮で父が勤めていた会社に寄る事ができました。
告別式の時父の同僚に「親父を会社に連れてって良いか?」とやさしい言葉をもらいました。
同僚は会社に携帯で連絡し「○○の親父が会社に行くから、通れるようにトラックよせとけ!」と指示を出してくれました。

霊柩車、はゆっくりと沢山トラックの並ぶ会社の構内を一周し火葬場に向かいました。

父の死は悲しいけど、私は父の死で沢山のやさしい手、心、人に触れました。
父の残してくれた一番の財産だと思います。

66歳、まだ若いけど私は大往生だと思ってます。

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2007-01-06

あけましておめでとうございます

とーってもお久しぶりでございます。

せつ子もゆず子も元気です!
都下のゆずこはしばらくお休みしてましたがちゃんとお休み宣言をしておこうと思います。

最近私の父の容体がおもわしくなく、その他色々とございましてブログにまで手が届かない状態でございまして・・・・。

時間があればせつ子にかまってあげていたいと思うようになりました。

もう少し時間があればせつ子と遊びつつブログの更新も可能だとは思いますが今はせつ子と過ごす時間を優先しようと思います。

せつ子嬢は相変わらず元気!
また、落ち着いたら必ず戻ってきますのでその時はよろしくお願いします!

それでは、皆さんとうささんにとって今年一年がよい年となりますよう心よりお祈りしてます!

ゆずこ&せつ子
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プロフィール

ゆずこ

Author:ゆずこ
せつ子嬢→2005年9月生まれ
     ネザーランドドワーフ
ゆずこ →1976年4月生まれ
     人間
趣味  →キャンプ
性別  →女


虐待にあった子猫「こげんたくん」に影響を受け私がささやかながらも出来る事。
今はせつ子の仲間を助ける方法しか具体的に思い出せず、うさぎさんの里親募集のリンクを集めてみました。

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